こんなニュースがありました。簡単に言うと公平を問われる試験で何故一定のポジションを取らざるを得ない問題が出るのかと。ものすごく簡単に言うと、トマトが嫌いなのに「なぜトマトが好きなのか?」と聞かれてるようなもの。答案に「トマトは嫌い・・・なぜなら・・・」がないということ。トマトの例は極端だが、政治の話となってくるとどんどんややこしくなっていく。
出題者、あるいは作問者の思想は知らないし、この際どうでもいい。しかし、その人が何かを意図するようなことをこういう場でするのは許しがたい。
何が怖いかと言うと、こういった意識操作がどんな場面でもあり得るという事実。新聞社が数社あるように、その分だけ特徴がある。どこどこは右寄りだとか、どこどこは左寄りだとか、どこどこは在日が多く反日的だとか・・・それを知らずに読んでいる購読者がいる。自分の立場を知らないまま操作されて、その新聞社に作られてしまったりする・・・かもしれない。
別に日本が好きとか嫌いとか、良い国だとか、悪い国だとか、そういうことは個人の自由でどうだっていい。もちろん好きだって人が多いほうが嬉しいけど、そこを言及する権利は俺にない。ただ、日本が嫌なら出て行けば良いのにと思う。日本は嫌いとか、嫌だとか、もうダメだとかいって国内にとどまって批判して、だったら出てけと思う。
政治批判と国批判とはわけが違う。
個人的には義務を義務と知った上で教員になっといて義務を放棄しといて権利を主張する。法治国家である以上義務を守った上で権利を持てると言う事を忘れている。個人的にはその教員達が懲戒免職とかそういう処分になって当然だと思う。
少し話がずれてしまったが、ひとまず、そういう意図があったにせよなかったにせよ、情報社会だからこそ、そういう情報操作とか意識操作とか、そういうことが存在することを忘れて欲しくない。
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